デジカメで撮る写真への想い ('98.12/19)

< すこしだけ面倒な、お話です >




フィルムスキャナーで銀塩フィルムをスキャンして得られる画像と、デジカメで撮影した画像は(いくらメガピクセルだからといっても)まるで別物の画質だという発言を、さまざまなメディアで目にしてきました。(もちろん、銀塩+フィルムスキャナの方が優れているという扱いです)
でも、C-1400シリーズで自分なりに気に入った写真を撮っているうちに、どうもこの優劣の前提は既に崩れているのではという思いを抱くようになりました。

いいや、自分のホームページだから、言い切っちゃおう ^_^;

C-1400できちんと撮れた画像は、入門機レベルのフィルムスキャナで得られる画像に比較してずっと良いです。スペック上ではフィルムスキャナの方が画素が多い筈の解像度も、主観的な解像感はデジカメ(C-1400)の方が良いです。
(これは、あくまで個人の主観的印象です。抗議のメールは送らないでください、この件についての論争をするつもりはありません・・  m(..)m )

では、なぜそう感じるのだろうかということですが、残念ながらきちんと評価するための技術的な言葉を持っていないので、私は次のような比喩で自分なりの考えを推し量っています。


●フィルムスキャナは、レコードを再生するアナログプレーヤーである。

 一度、銀塩フィルムというアナログ媒体に変換された画像情報を、
 やはりレンズ光学系というアナログ変換器を通して読み取っている。

 優れたカッティングのレコードを優れたプレーヤーできちんと再生すれ
 ば、素晴らしい「音楽」を再現してくれるが、そのためには「良い」
 レコードが必要なのはもちろん、途中の変換系に対して厳しい分解能、
 リニアリティが要求される。
 また A/A - A/D と、変換が一段余分に入るという基本的弱点がある。


●デジタルカメラは、MDでの生録である。

 狭い帯域とダイナミックレンジ、圧縮劣化という三重苦があるが、
 うまくその枠のなかに嵌められれば素晴らしい鮮鋭感を持った記録が
 できる。
 ヤマハでレッスンを受けていた頃、先生の演奏をMDでよく生録りしま
 したが、生ドラムはまず間違いなく歪んでしまいました。
(画像だと白飛びにあたるのでしょうか)
 しかし、自宅に帰り再生した際の臨場感には得難いものがありました。


この比喩におけるキーワードは、「鮮鋭感」です。その記録メディアがどれだけ広い記録レンジを「理論上」備えているかを問題にするのではなく、一次情報の波形をナマらさずに最終出力に「現実に」どれだけ再現できるかを、重視する。

なぜ、「鮮鋭」に感じるのか。鮮鋭な記録を実現しているメディアを、どう自分の作品につなげるのか。
ここからの後半は、ともすれば「ラチチュードが狭い」「派手な素人向けの色作り」などの言葉で斬られることの多かった C-1400シリーズを、私なりに擁護する論です。

次のキーワードは、「認知」

ある会議室で教えていただいたことなのですが、人間の目は生理学上、1分(1度の60分の1)の解像力を持っているそうです。
これはどれくらいの解像度かというと、太陽の直径の1/30以上の黒点が発生すると、朝霧を通して肉眼で判別できるほどのものだそうです。

思った以上に、素晴らしい解像力を人の目は備えています。
それでは、1分の黒点の隣に1分の黒点がもう一点並んでいるとき、この2分の黒点と1分の黒点を人は有為に識別できるものなのか?

網膜上には、錐体と杆体があり、このうち解像度を担うのは錐体であって中心窩から周辺へいくほど錐体が減るという話を、高校の理科かなにかで教わりました。人間の網膜に備わっている、デジカメにおけるCCDの画素に相当するところの錐体の数は、思いのほか少ないのではという疑問を感じたのでした。

まだほんの6年くらい前のことでしょうか、NECのPC-9801シリーズの 640x400 256色 しか手元になかった時代に、同じ画素数のまま1670万色の画像をオーバーレイできる SuperFrameというビデオボードを使ったことがありました。
このとき驚いたのは、画素数は同一なのに写真としてスキャンして取り込むと、活字がそれまでの全角12ドットフォントとは別格の読み取りやすさで読み取れるということ。

これは裏返すと、如何に脳内で高度な補間処理がなされているかの現れだと思います。
で、ここからが認知についてです ^_^;
知覚情報から内的表象にいたる過程についての想いです。

人の目にする現実世界は、星明かりから晴天下の白昼光まで、実に広大なダイナミックレンジと対峙しています。
視界のあるポイントに注意する場合、そこに注視点が移動することをサッケード(飛躍運動)というそうですが、この選択的注意は分解能においてはもちろんのこと、光のダイナミックレンジに対しても行われているのではないでしょうか。
この選択的注意を経て情報量を落とした、感覚記憶は、次に鋳型照合モデルなどによる補間を経て内的世界と結びつき、さらには審美的な判断までなされます。

写真を作品として撮り、人に提示するという行為は、この情報量を落とし審美的な内的世界との相互作用を経て選択的注意を行う認知の過程を、鑑賞者に追体験させる行為に他ならないと考えています。

つまり、私ハ、コレガキレイダト思ウカラ、アナタモオナジ目デ見テミテ。 ということですね。

そして、私は、そういう写真を撮りたいと思っています。

で、この観点に立つと写真の最終出力にはネガカラー的な広大なラチチュードは必要なく、自分の見せたいところを如何に広いダイナミックレンジで見せるか、が大事になってきます。
だからこそ、C-1400の被写体のダイナミックレンジを鈍らせずに切り取れる設計が好きですし、「素人受けするための派手な絵作り」との一言で切って捨てられるとに疑問を感じるわけです。

私は写真をモニタ上で見るのが好きなのですが、これも同じ理由かもしれません。
印画紙はあくまで反射光で見るわけですから、下限である刺激閾も上限である刺激項も、その紙がさらされる環境光に依存するわけです。
暗めの部屋で真近に見るモニターは、この点において印画紙を上回るのではないでしょうか。
画素数も、現状で十分(自分が作品を鑑賞する上での最低限をクリアできたという意味において)だと感じています。だから、モニターの大きさには拘りますが(21インチを使用)、モニタの少々の色温度差は目が補完してくれるからいいや、とも感じています。


以上、読み返してみて自分でもずいぶんと乱暴な論ですし、何よりもそんな大層な写真など撮っていないではないかとのお叱りを受けそうですが ~_~;  まぁ、デジカメ写真を撮る上で気持ちだけはそんなことも考えているということで・・。

居酒屋で盛り上がったオフ会でのヨタ話とでも受け止めていただければ幸いです。




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